インクルーシブ・アート・コミュニティ構想


【当初の考え】

子供から大人まで、私達の学びのかたちを考えてみると、一人で学ぶ個人学習のものから、いろいろな人たちと関わりながら学ぶグループ学習のものまで様々にあるわけです。そこで当初アートコンパスは大きく3つ「自分・他者・世界」との「対話」を通して、参加者の皆さんがそれぞれの学びの醍醐味を味わっていただき、3つの領域を横断できる仕組みを(現代の分断されがちな学びの場とは対に)考えていました。

そこはまるでグラデーションの空間のように。例えるなら、日本家屋(内)と庭(外)の関係に似ています。例えば個人学習としての要素が強い「みんなのアート基礎講座」が、仮に屋内の居間で学んでいたとすると、庭先では何人かが協同作業「みんなのアートプロジェクト」をしているといった具合です。

私達日本人は、四季折々に変化する自然環境の中で、内と外を明確に区分せず、状況に応じて柔軟に、そのあいまいな関係性を創造してきました。そして、それぞれの場所から別を眺め見ることが出きる風通しの良い全体性がそこに存在します。
 
そして、自分と他者と回りの環境をも取り込む学びの場を具現化していくには、(特に個人から協同プロジェクトまで進めていく為には、)この考えに共感して頂ける参加者の方達を募り、巻き込んでいかないと、アートコンパスがイメージする全体像の実現は難しいわけです。

その為少しずつ活動を続け、適宜その状況を見ながら、また参加者の皆さんの呼吸や歩幅に合わせながら、無理なくその過程を楽しみ成長していきたい!と考えていました。

 
 
「一年目のみんなのアート基礎講座:手拭づくりの一こま」


【参加者の声から生まれた】

そんなおり、昨年頃からアンケートを通して参加者の皆さんからいろいろな声を聞けるようになりました。例えば「絵画教室はやっていないのですか?」「子供達の夏休みにある図工の宿題を見てほしい!」などなど。正直なところ、それらの声は当初アートコンパスが考えた3つの場のコンセプトには当てはまらないものでした。「さて、困ったぞ。どうしようかな?」となったわけです。結果、新たにもう一つの場「みんなのアート広場」(=アートのフリースペース)が生まれたわけです。

【オルタナティブ教育とインクルーシブ教育の融合】

2年目ぐらいから実践活動と平行して、公教育以外の教育、つまり「オルタナティブ教育」についてのリサーチを始めてきました。国家事業を優先に構成された教育体制ではなく、子供達の自由や幸せを最優先に考えるその国内外のかたちは斬新で、個人的にとても魅了され、アートコンパスのコンセプトにも大きく反映させています。

一概には言えませんが、個人的に、子供達が素直に受け入れてくれる考えは、大人にも受け入れられる要素がたくさんあると考えています。また評価の点でも、子供達が講座後につまらなそうにしていれば、その講座は失敗です。けれど笑顔で満たされていれば、大成功です!とてもシビアな世界ですが・笑

また世間一般的な学びの場を見てみると、ある固まった世代層だけで構成されている場が多いようにも思います。例えば公教育の現場はその数名の大人(教師)と大多数の子供(児童・生徒)、生涯学習センターの講座は定年退職された高齢者の方々だけの居場所、などなど。

アートコンパスが求める学びの場は、子供からシニアの方まで、障害をもつ人たち、国籍や言語の異なる人々が、一同に会し、楽しくアートを学べる場・・・。

つまり、全ての人々を包み込み(包摂=インクルーシブ)、同じ興味関心または共通テーマ(=アート)のもとに、それぞれの表現や考えが多様に響き合い、その差異を真摯に受け止め、自己を省み、そこでの学びを糧に明日に向かって力強く生きていける!その発着場(=コミュニティ)のようなイメージ。。。

そうです、これがアートコンパスが考える「インクルーシブ・アート・コミュニティ構想」です。

 

【3つから4つのかたちの場へ】

そこで今回、誰もが楽しくアートを学べる場を「個人~団体・つながり」を横軸に、テーマや学びの内容が「同じ~異なる」を縦軸にしてみたときに、新たに「みんなのアート広場」を加え、4つのプログラムの特徴と性質をその座標の中に置いてみたとき、以下の図になったわけです。

余談ですが、日本の教育シーンは「同じ・つながり」のエリア(=みんなのアートプロジェクト)、海外は「個々・違い」のエリア(=みんなのアート広場)において「強み」を持っている傾向があります。(私個人はやっぱり個々の違いが強調される海外の環境が性に合ってますが・笑)そして今の日本全体を見てみると、「つながり・違い」のエリア(=みんなのアート工房)を各専門分野の方たちが様々なワークショップを通して学びの形を展開し、共有しています。


 
自由に横断できるアートを学べる場の全体像です。



そしてもう一つ、
 
 

【クラスの違和感とコミュニティの考え】

昨年までは、3つのプログラム;「みんなのアート基礎講座」「みんなのアート工房」「みんなのアートプロジェクト」の総称を「アートクラス」としていましたが、その「クラス」という響きに以前から違和感を感じていました。何と言うか「クラス」というと何かあらかじめ強制的に決められた狭い箱・空間のような響きを感じます、個人的に。

そしてそこには「参加」ではなく「出席」の意味合いが強いように感じるのです。

「参加」は一人ひとりの自由な意思で、その場に加わること(能動性)を意味し、「出席」は自分の意思とは別に強制的に加わらなければならない雰囲気(受動性)を感じてなりません。

またその語源を調べてみると、とても興味深いことが分かりました。

「クラス」には大きく2つの意味があるようです。
歴史的背景を持つ「階級」と「分類」の意味です。 
 
私はアートコンパスの「誰でも楽しくアートを学べる場」に、潜在的に意味するその「階級」も「分類」も持ち込みたくはありません。

そんな時、それに代わる言葉を見つけました。

それはずばり「コミュニティ」です!

その意味は、



二つのインド・ヨーロッパ語の語源(「誰でも everyone」を意味するkomと「交換 exchange」を意味するmoin)が、史記として記録される前に、「すべての人が共有するshared by all」という意味で一緒になった。
この言葉はさらに、(多くの人が使う、水の)「源泉 a source」を意味するラテン語のcommunisへと進化していった。
フランス人はこの語を「誰にでも使用可能な」という意味のcommunerという語にした。
言い換えれば、「コミュニティcommunity」という語の元来の意味は、境界線によって定義づけられるある場所のことではなく、共有されている資源(リソース)によって定義づけられる場所を意味している。・・・

人々のコミュニティとは、アクティビティや相互の尊敬を伴って広がる、生物圏の中に根ざしたある場所のことであり、その場所にいるすべての人は、お互いのために責任を持ち、お互いに対して責任ある態度を取るのであり、それは、すべての人の生がお互いに依存しあっているものだからだ、という認識である。・・・
ピーター・M・センゲ・著
「学習する学校_子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する」
第3部 コミュニティ p.700

 
「人間が、それに対して何らかの帰属意識をもち、かつその構成メンバーの間に一定の連帯ないし相互扶助(支え合い)の意識が働いているような集団」
広井良典著
「コミュニティを問いなおすーつながり・都市・日本社会の未来」
ちくま新書p.11


私は今、この「コミュニティ」という言葉が「クラス」に代わって、誰もが楽しく学び合える「有機的に存在できる場所」の意味として、ぴったりと当てはまってしかたがありません。


【最後に】


そんなわけで、長々と取り留めなくお話しましたが、今年から新たに「みんなのアート広場」と「みんなのアート工房」の2つのコミュニティを新たに始めていきますが、アートコンパスが掲げる「インクルーシブ・アート・コミュニティ構想」の全体像の現状はまだその1/4です。

先はまだまだ長いですが、その過程を地域の皆さんと一緒に楽しんでいきたいと思います。もちろんこの考えだけに固執せず、今後新たに吸収すべき考えがあれば柔軟に対応していきたいと思っています。

それでは、楽しいアートの学びの場で、皆さんの「参加」をお待ちしています!




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